「平和の根源は神様」韓鶴子総裁 講演文

「平和の根源は神様」

韓鶴子総裁 講演文
"In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the word was God." John1:1

「平和の根源は神様」

(02.08.18 福岡市 シーホークホテル&リゾート)

 天地が待ち焦がれた時代
 愛する日本の兄弟姉妹の皆さん! そしてこの歴史的な大会を見守っている7000万の世界の人々と霊界の7億の祝福家庭の皆さん! 私たちはいよいよ本当に歴史的で摂理的な時を迎えました。6000年間、天と地がこれほどまでに待ち焦がれていた平和の理想世界、すなわち地上天上天国を創建する天運の時が私たちに訪れたということです。
 天は歴史を通して摂理されながら、その時代と地域的文化に合わせて宗教を許可され、人類はその宗教圏内で平和の世界を成就するために、不断の努力を傾けてきました。

 しかし、人類は、きょうも、あらゆる不条理と不道徳の中から抜け出すことができずにうめき苦しんでいます。津波のように押し寄せる堕落の風潮を押しとどめることができないまま、激しい波にのみ込まれる自らにふと気づき、驚愕を禁じ得ないのが現代人たちの自ら描く姿です。

 だとするならば、私たちには永遠に希望がないというのでしょうか。私は夫である文鮮明総裁と共に、神様のメッセージを伝えることに生涯を捧げてきました。そして、その預言的なメッセージの数々は、時代と環境の現実的な制約を超え、事実であり、真理であることが証明されつつあります。

 私は、きょうもこのように天のメッセージを持って皆さんの前にまいりました。信じる信じないは皆さんの役割ですが、私は悲壮な覚悟でこのメッセージを、終末期を迎えた今日の人類に、神様に代わってお伝えします。「平和の根源は神様」と題してお話しします。

 どうか心の門を開き、無知と混沌でつづられた今日の終末期を生きている人類に下さった天からの警告として、謙虚に受け入れてくださるようお願いします。

 本来、人間はエデンの園で、神様を中心として、永遠の自由と理想と平和を享受しながら暮らすように造られました。しかし、私たちの始祖であるアダムとエバの堕落により、そのような本然の世界が成されませんでした。

 堕落したその日から、この地上には苦痛と悲しみと悲運の歴史が始まりました。真なる愛と真なる理念を持って生きるべき人間が、真なる理念を持つことができませんでしたし、真なる愛とは何であるか分からなくなってしまい、幸福な環境で暮らすべき人間が幸福の園を失ってしまいました。

 自由と平和を謳歌し、ひいては創造主の前に心から一つになり、幸福のすべての要素を持って、栄光をお返しするべきでしたが、そのような人間になることができなかったのです。

 サタンは、私たちの真の父母を蹂躙し、私たちの真なる家庭と真なる兄弟を蹂躙し、真なる氏族、民族、国家、世界を蹂躙したのです。

 それだけでしょうか。今まで6000年の長い歳月の間、神様を苦難と逆境に追い込んだ張本人です。

 このように、堕落はこの地上に死亡の歴史を出発させ、その日からこの地は、平和の地どころか苦痛の地となり、死亡がこの地上を覆ったその日から、どこでも人間が住む所には、平和ならぬ闘いの歴史路程を経るようになったというのです。

 個人的には心と体の葛藤として闘いが継続され、家庭においては家庭的な争いがあり、またこの闘いは民族的な闘い、あるいは世界的な闘いに拡大され、今日、世界のどこを探しても、争いのない所がないという歴史を綴ってきました。

 もう一度繰り返しますが、これらはすべて人間堕落の結果なのです。世界中の数ある国家の中には、環境が良くなくても良い種を持つ国家がありますし、環境が良くても悪い種を持つ国家が存在し得ます。

 もし、この世界がすべて良い種を受けていたとするならば、すなわち、この世界がもともと良い木から採れた良い種でもって、良い環境で育っていたなら、今日この世界は、平和の世界、希望の世界、未来の保障された世界になっていたに違いありません。

 しかし、不幸にも私たちが暮らしているこの世界は、平和の世界、希望の世界、未来が保障された世界にはなっておらず、善悪が混在する世界になっています。

 周囲に現れる環境は、善なる環境というよりは悪なる環境になっています。このように周囲が悪なる環境に取り囲まれているので、いくら種が良くても、良い実を結ぶことができないというのです。

 人類歴史を見ても、同じです。人類が善であり得るためには、まず人類を形成している個々人が善でなければなりません。

 堕落していなかったなら、私たち人間は、理想的な春の園を迎えていたことでしょう。その理想的な春の園で、神様が喜び得る人々として、育っていたことでしょう。そのように育った人類なら、この地上に本然の文化世界を開花させていたことでしょう。文化世界を創造したその中で、私たち人類は平和で幸せに暮らしていたことでしょう。

 万物世界が春夏秋冬の季節に従って巡ってくるのと同様、人類歴史もやはり春の季節、夏の季節、秋の季節、冬の季節のような過程を経ながら、永続する世界になるべきであったのに、堕落することによって、人間の世の中では、人々が喜び得る希望の時、栄光の一日を迎え得る喜びの出発ができなかったのです。

 もう一度繰り返しますが、人間始祖アダムとエバから生まれたカインとアベルは、神様の愛を中心として生まれた息子、娘ではありません。神様の真なる血統を伝授されなければならなかったアダムとエバが、堕落行為を通してサタンの偽りの血統を受け継いだがゆえに、彼らから生まれた子供たちは、神様の子供ではない、サタン、悪魔の子供になるしかない運命を持って生まれたのです。

 ですから、イエス様もヨハネによる福音書8章44節で「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と戒めたのです。

 アダムとエバは神様の鞭で追い出された私たちの最初の先祖となりました。しかし、本来アダムとエバは、神様から「愛するアダムよ、愛するエバよ、私はあなたがたを、宇宙のすべてを創造した目的の世界、愛の園を建設するために造ったので、あなたがたは平和と幸福の主人であり、父母であり、王である」という祝福を受けるべきだったのです。アダムが、千秋万代、永遠に変わることなく地上の王であり、天上の王として生きるべきだったのです。

 天地が生じ、神様と人間の因縁が生じたのち、初めて真なる主人、真なる父母、真なる王の名をつけられるべきだったお方がだれかというと、まさに私たちの始祖アダムだったというのです。


 堕落は自己中心的自覚から
 それでは、何が人間をこのように悲惨な堕落の道に追いやったのでしょうか。一言で堕落とは、自己中心的自覚から始まりました。
 今日、私たちの周辺で、堂々とわがもの顔で猛威を振るっている極度の利己主義的思考と行為が、まさに私たちを堕落の道に追いやった元凶なのです。

 他人の立場や境遇を考える前に、自らの利益や便宜だけを追求する拙劣な行為、他人が死のうと死ぬまいと自分だけが生きようという破廉恥な姿は、みな堕落を引き起こした行為の片鱗なのです。しかし、これは、創造当時に神様が計画なさった本来の目的ではありません。

 神様もこのような世の中を願われず、人間もこのような世の中に生まれて暮らすことを願いませんでした。

 そのため、神様は、このような悲惨な歴史、苦痛に満ちた歴史を清算して、本来願われた平和の世界、幸福の世界、自由の世界、善の世界を取り戻すという目的を立てて、この堕落した世の中を収拾して来られたのです。これがすなわち復帰の道であり、救援摂理の道なのです。

 堕落したアダムとエバの子孫として転落した人類になりましたが、人間はだれしも本然の世界を志向する本心が残っているため、人類は歴史を通して神様が願われる世界を望み、志向してきたのであり、私たちのその希望は、行くまいとしても行かざるを得ない、なすまいとしてもなさざるを得ない理想として残されたのです。

 神様は、堕落した人類に時代に従い新しい理想と新しい心情を取り戻してくださろうと、今日に至るまで摂理を繰り返してこられました。

 もし、そのような理想を成就する一日が天と地において見いだされないならば、すなわち、天と地を動かすことのできる一つの中心存在、そして、その中心存在を軸にして共に動くことのできる人々が現れ、天と地が一つになって一つの目的を志向することのできる道を開けないならば、この地上には真の自由と平和と理想が成されないのです。そのようになれば、人間は宇宙的な運命的蕩減復帰の歴史過程を抜け出すことができなくなることでしょう。

 このような事情があるため神様は、私たちに栄光の立場でお訪ねになることができないのです。平和と自由と理想を持ってお訪ねになることもできません。

 反対に祭物の峠を歩んで私たちをお訪ねになるしかないのです。蕩減復帰の道だからです。神様の悲しい心情を一掃してさしあげる一時、すなわち神様の心中にしみ込んでいる恨を解いてさしあげることのできる一時を探し立てることができない限り、人類の平和はもちろん、神様の創造理想もこの地上でその実を結ぶことができないのです。

 私たちは、神様の胸に、しこりとなっている恨を解いてさしあげることによって、神様を解放してさしあげるべき責任があります。しかし、このような事実を、今日、イエス様を信じる聖徒たちは知らずにいます。

 私たちは、堕落した人間なので、堕ちる以前の本然の状態、神様を失ってしまった人間なので、神様を失う以前の立場、人類の真の父母を失ってしまったので、真の父母を失う以前の立場を再び取り戻さなければならないのです。

 私たちは、神様と真の父母を中心とした平和の園において、子女として生活することのできるその立場を取り戻して、その立場に立たなければならないようになっています。

 この課題を成就するために、今日の私たちには、新しく救援摂理という名詞が残るようになったのです。

 全知全能の神様は、どのような作戦によって地獄のようなこの世界を平和の世界へと変えるのでしょうか。本来、人が堕落していなかったならば、神様の愛を中心とする人間の心と体が二律背反的な位置に立つことは絶対にあり得ません。しかし、堕落することによってそのような位置に立ったので、歴史路程を再度収拾し、一つの世界平和圏をつくって安着することのできる基地を用意するために、神様は救援摂理、すなわち復帰摂理といううんざりするほどの宗教儀式や規則を通して、受難と犠牲と流血の歴史を綴ってきたという事実を知らなければなりません。

 しかし、仮に心情の基準を立てることができないままその世界を取り戻したとしても、それはいつか再び整理しなければなりません。

 いくら高い理想を持ったとしても、あるいは全世界を一つにして理想的な平和の世界を確立したとしても、個々人がその世界を考え、その世界に応じ、その世界の動きによってその世界と一つになり得る心情の基準を持つことができなければ、いくらそれが願っていた理想世界だとしても、その世界は自分自身とは何の関係もなくなるのです。絶対者創造主のつくられた万物も、創造主の愛を受けて再び創造主と一つになることが目的です。

 したがって、万物の霊長と言われる人間が、万物を主管できる立場に立とうとすれば、必ず神様の心情を受け継いだ位置に立たなければなりません。このような心情は、神様と人間が父子関係だということを証明してくれるしるしであることはもちろん、万物と人間を結んでくれる絆でもあるのです。

 ところが、このような平和の理想世界、すなわち創造本然の世界を復帰するには、必ず蕩減の条件を立てなければなりません。蕩減復帰の過程を経なければならないというのです。

 蕩減復帰とは何を意味するのでしょうか。何であっても、その本然の位置と状態を喪失した時、それらを本来の位置と状態に復帰するには、必ずそこに必要なある条件を立てなければなりません。このような条件を立てることを「蕩減」といいます。

 しかし、一般社会では、「蕩減」という言葉をそのように重要視していないことを見ることができます。そのような言葉はありますが、その内容をよく知らずにいるからです。

 天と地、神様と私たち人間だけならば、このような「蕩減」という言葉は必要ないはずです。すべて私たちの最初の先祖を堕落させたサタンのためです。サタンがいなければ蕩減も必要なく、今日私たちが、のどが張り裂けるほど叫んでいる「宗教統一」という言葉も必要ないはずであり、「神様の解放」、「人類の解放」といった単語も必要のない世界になっていたことでしょう。

 堕落が人類歴史の破綻、苦悩と失敗の歴史、戦争の歴史をもたらしたので、これを一掃してすべての根本問題を解くには、神様のために生き、人類のために生き、すべてのもののために生きる真の愛の生活からその根源を復帰しなければなりません。

 そうでなくては、平和の根源を発見できないのであり、平和の根源を発見できなければ平和の世界も見いだすことはできないのです。

 イエス様は、この地に来て何をしましたか。迫害を受けて十字架で亡くなりながらも人類を愛そうとしました。十字架の愛を中心として施していった人です。愛を受けようとしたのではありません。怨讐までも愛そうとしました。

 皆さんの人生においても、愛を受けようという方向性が愛を与えて生きようという方向性に転換して、その基準が世界化されれば、その時には平和の世界が訪れるはずです。

 愛を受けようという意識ばかりを持った人々が暮らしている所には、永遠に平和の世界が来ることはありません。自分の父母だけが父母ではなく、自分の兄弟だけが兄弟ではなく、自分の息子、娘だけが息子、娘ではないというのです。

 すべての人を自分の父母、自分の兄弟、自分の子女のように感じて対することのできる人格を持つようになれば、皆さんは死亡の世界で苦しむ多くの民を見る時、涙なくして対することができないはずです。

 青少年が麻薬と放蕩の沼でもがくのを見る時、自分の子女を救う心情で、彼らを救うために心血を注がざるを得ないはずです。それは、受けようという愛ではなく、われ知らず与えようとする愛の発露によるのです。

 自由や平和は、統一を前提条件としています。夫婦間の生活をおいて一度考えてみてください。二人が一つになっていないのに、真の意味で夫婦の自由を享受することができますか。

 夫婦間で一つになることができなければ、円満な家庭は期待できないのです。家庭の平和は、絵に描いた餅になってしまうのです。

 個人や家庭はもちろん、世界的に「愛を受けようとするのではなく愛を与えよう」と考えられる人を育てておかなければ、統一の世界や平和の世界が訪れることはあり得ません。

 変わることのない神様の前にいつでも心変わりするような人になろうというのは神様に対する冒涜です。変わることのない愛の前に変節を前提とした愛を行うことは愛に対する冒涜です。


 終わりのない心と体の闘争
 私たちは、神様と苦楽を共にすることのできる出発点、すなわち変わることのない頂点において、自分の心に平和の基盤を用意し、さらには自由と幸福の基盤を用意できる基準を備えなければなりません。
 そして、その基準を中心として体を完全に主管し、この世界を統一することのできる実力を備えていく運動が、この地上で展開されなければならないのです。イエス様がもたらした新しい世界主義運動がまさにこのような運動なのです。

 これこそ、今日このように混濁した世の荒波をかき分けて生きていく人類の前に、神様が最後の終末的警告として下さったみ言だということを銘記しなければなりません。私たち全員にとって宿命的な課題です。運命的ではなく宿命的だというのです。宿命は変わらないのです。運命は自分の努力によって改めることも、変更することもできますが、宿命は変更できません。絶体絶命の天命です。

 皆さん、私たちが人生を生きてきながら、だれでも一度くらいは平和の発祥地、あるいは幸福の発祥地がどこなのかと疑問を持ったことのない人はいないはずです。果たして平和と幸福の発祥地とはどこでしょうか。

 それはアメリカでもなく、韓国でもなく、国連でもありません。

 問題はどこにありますか。心と体が闘うこの人間の胸の中で、いかに平和の宇宙観をもち、幸福な世界観を持つかということが、限りなく重大な問題です。

 私たちの小さな胸の中では、6000年続いてきた戦争の砲火がいまだに燃え上がっています。第一次世界大戦も激戦でしたし、第二次世界大戦ももちろん激戦でした。しかし、そのような戦争は、すべて過程的な戦争でした。長くて5年を越えることのない戦争でした。

 ところが、皆さん自身において展開する心と体の闘争は、終わりも知らずに破滅に向かって突っ走っていく最悪の戦争です。自らの一生に向かって大砲を撃っています。心と体の決戦場は、神様とサタンとの善悪の戦場となり、熾烈な激戦が展開しているというのです。

 しかし、このように霧の中に閉ざされ、垣根の中に封じ込められた人間像を、果たしていかに解放するのかということが問題です。霧を吹き飛ばしてしまう風が吹くようにしなければなりません。天の高いことも知らず立ちふさがっている壁を爆破してしまわなければなりません。これが私たちの宿命的闘争路程です。

 睡眠を克服しなければならず、空腹を克服しなければならず、非原理的な性的欲望を克服しなければなりません。それで、文総裁は、早くから、この道を出発しながら「宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなさい」という標語を掲げて、一生の間闘ってきたのです。

 聖書では、今日の人類を「孤児」といいました。国家も「主人がいない国」といいました。皆さんの心は、ほんの一瞬でも真の平和を享受してみたことがありますか。皆さんの国には主人がいますか。

 昨今の政治の現実を見てください。どこに、この国、この民族を真に愛し、生命を捧げて平和を成就しようとする真の愛国者を見いだすことができますか。心の病にむしばまれていくこの国の若者たちを救ってあげることができる思想や理念を、だれが提示することができますか。

 実に切なく、悲痛な思いを抑えるすべがありません。このようなことは、すべて私たち個々人において、一心一体一念の基準を立てることができていないことに由来するものです。心と体の統一がなくて、いかに家庭と国家と世界の平和を願うことができますか。

 私たちの本心が平和と幸福と統一を願うのは、永遠不変の真理です。しかし、問題は私たちの肉体です。心を包んでいる器なので、好き勝手に脱ぎ捨ててしまうこともできず、時々刻々と姿形も、方向性も変わってしまうこの体を、どのように扱うかということが鍵です。

 人間の体はサタンの王宮です。それで、使徒パウロも、「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ロマ書7・23~24)と嘆きました。

 私たち自身を深く見つめてみれば、善と悪の二つの目的を志向する要素が内在しているのを発見することができます。善を志向する心があるかと思えば、正反対に悪を志向する体があります。これを解決できなければ、歴史的に怪物のような怨讐だった体は、いつまでもそのまま残り、永遠に私たちを困らせることでしょう。使徒パウロの嘆きも、まさにこの点を指摘しているのです。

 皆さん、世界平和を成就することのできる道は戦争ではありません。お金と権力と知識もその解答ではありません。国連の力でもできません。利己的な個々人の欲望と自国の利益にばかり血眼になっている国連の舞台では、何も期待することができません。

 私たち自身の中に堕落性が残っている限り、いくら理想を掲げ、平和を叫んでみても、そこにはいつも闘争と混乱の歴史が乱舞することでしょう。

 したがって、この堕落性を根絶することなくしては、平和の道を模索することができないという結論を下すようになるのです。

 世界平和の基準は、歴史時代の終末点にあるのではなく、闘っている自分の心と体を統一させることができるところにあるのです。人間の心と体の間隔が広がれば広がるほど、それにしたがって葛藤と苦痛も大きくなります。

 私たちの心は、神様の監視所であり、体はサタンの一線です。したがって、私たちは、心と体の間隔を狭め、衝突を避け、ついには一つに統一させなければならないのです。

 私たち自体の中に根を下ろした堕落性を抜いてしまい、心身一体一念の境地に到達するためには、私たちに真の父母が必要です。選択の余地もなく偽りの父母から受け継いだサタンの偽りの血統を、除去してくれる真の父母に会わなければなりません。真の父母に会って真の愛の真理を伝授され、「ため」に生きる真の愛を実践する人生を生きなければなりません。

 皆さん、世界を一度注意深く見てみてください。小さくは夫婦間の葛藤から、大きくは国家間の相克と戦争に至るまで、推し量ることができないほど多くの問題点を抱えています。そこには、原因と理由も限りなく多く存在します。しかし、その根本を掘り下げてみれば、男性と女性の問題に帰結されます。

 いくら大きな問題でも、調べてみれば、結局男性と女性の問題に集約されるということを否定できません。人類の出発は、本来男性と女性の関係から出発したのではないですか。家庭での不和が拡大されて各種の社会問題と国家、世界の問題にまで広がるのです。

 したがって、すべての家庭で、すべての社会と国家で、そして世界的次元において、男性と女性にかかわる問題さえ完全に解決して、一つの標準型をつくっておけば、世界は、一つになった平和世界、すなわち創造本然の理想世界になるはずです。

 神様は、本来私たちの始祖であるアダムとエバを中心として、この地に真の平和の世界を定着させようとなさったのです。彼らがもし堕落しないで、神様のみ旨どおりに成長して人格完成を成していたならば、神様の祝福とともに、彼らは真の家庭を築いて罪悪と苦痛のない理想天国を創り出したことでしょう。

 その世界がまさに永遠の平和世界になったのであり、人類は、子々孫々神様の直系の子女として、神様と直接交流することはもちろん、先に霊界に行った先祖とも自由自在に往来しながら交流して、幸福な人生を享受したのです。罪を犯そうとしても犯すことができない絶対善主権の世界になったのです。

 そのような世界で、どうして心と体の葛藤を想像することができ、家庭の不和を心配することができますか。

 数千年間、天と人類を弄んで蹂躙してきた悪魔、サタンが出現するようなことはあり得ないのです。

 このように、最初のボタンをかけ違えた人類歴史ですが、天は私たちをお捨てになりませんでした。失ってしまった子女を取り戻す復帰摂理に、6000年間心血を注いでこられたのです。ただの一度も、御自身の人間創造を後悔したり、サタンの翻弄の前に挫折したりすることなく、ただ一途に、真の愛と赦しの心情で復帰摂理を展開してこられたのです。

 きょう皆さんが、尊いみ言を通して、このように神様に対してより深く学び知るようになったということは、偶然のことではありません。この場まで皆さんを導いてきた天と先祖に対して、感謝する心をもたなければなりません。

 今、私たちの最優先課題は、心身の一体化を通じて私たち自身の人格完成を成し、サタンの支配下で四分五裂した家庭を収拾して、真なる家庭を探し立てることです。

 上は一代目の位置にいる祖父母を天のように侍り、二代目の父母の前に絶対服従しながら、三代目の立場に立った子女たちは、絶対夫婦を成して、子女を罪なく純粋に養育し、一つの家庭において三代家庭圏を立てるようになれば、天はその家庭と永遠に共にいるようになります。


 神の愛に感応する心と体
 皆さんの家庭は、神と人が一体化した境地において、人類に永遠の平和と幸福をもたらす揺籃となることでしょう。
 皆さん、本然の人間は心と体が神様の真の愛に感応しながら、一体を成して生きるようになっています。

 しかし、今日この地上の多くの人々は、心とは何であるかを知らないまま生きています。心自体が、神様の愛を中心として安息するための、自分の人格形成の基盤だということを知らずに生きているというのです。この心の中には、神様も迎え入れることのできる余裕があります。

 どのような人でも正しい心を持つようになれば、万民を一度に平和の王宮に移したく思うのです。私たちの心と体が闘わないで真なる統一の起源を成すことができる可能性を持っているのは、人間が神様に似た子女であるからです。

 絶対者神様は、自体内に矛盾や葛藤があり得ません。神様は男性性相と女性性相の中和的存在でありながらも、男性格主体としていらっしゃるお方です。人間が心と体の二重構造からなっているのと比較することができます。

 神様は自体内に、絶対的でかつ完全な統一を成して存在されています。したがって、そのような万有の大王であられる神様に似て子女として創造された人間も、心と体の完全統一を成すことができるというのは、論理的にも可能な説明です。

 ところが人間は、堕落によって心と体が調和統一の基準を失ってしまい、葛藤と矛盾の泥沼で苦しみながら生きてきました。堕落した人類を救出しようとする神様の愛は、歴史的に多くの宗教の出現として現れました。

 悪の勢力がはびこる世の中で、心が体を100パーセント支配する生活を営むということは、ほとんど不可能なことです。したがって、神様は歴史的にその時その時ごとに、時代と文化、そして地域的な環境と条件を勘案して、必要適切な宗教を許されたのです。

 そして、人間は宗教の教えに従って、心を中心とした人生の道をこつこつと開拓してきました。現実世界に執着せず、永遠の世界に希望をおいて生きる道を学んできました。

 キリスト教を見ても、現実世界に焦点を合わせて生きなさいという教えはありません。この世でよく食べて幸せに暮らすために、利己主義的な生活を送ってもかまわないとは教えないのです。必ず心の世界における平和を強調するのです。

 「天国はあなたの心の中にある」と説いているのが、その良い例です。ここでいう天国論は、この世的な豊饒と権力を意味するものではありません。仏教でいう「天上天下唯我独尊」も同じ脈絡で理解することができるのです。宗教によってその方法は異なり得るでしょうが、一様に人間に希望をかけて自らを省察しながら、心が体を押さえて生きることができる道に導いてきたのが、宗教の使命でした。

 このように神様は、6000年間という長い歳月の間、宗教を通した人類救済の摂理を展開してこられましたが、どの宗教指導者や聖人賢哲も、どのようにすれば私たちが心と体の葛藤を克服し、永遠の統一と平和を成就することができるかを、はっきりと教えることができなかったのです。

 どうしたら、心を中心として体を完全に征服することができるかを、教えることができませんでした。

 平和の基準を見いだすことのできるところ、父母が永遠に一つとなり、夫婦が永遠に一つとなり、兄弟が永遠に一つとなり、父母と子女が永遠に一つとなり、一族が永遠に一つになり得る心と体の統一点を提示できなかったのです。


 全霊界を統一した真の父母
 しかし、今や時が来ました。天が待つことは終わりました。今日、私たちが生きているこの時代こそは、人類が歴史的に迎えた終末の中の最後の終末期です。
 天はもうこれ以上、人類救済の摂理を延長することも、延期することもできなくなりました。天と地がこれほどまでに待ち焦がれ、望んできた人類の真の父母が、今、この地上に顕現して、すべての責任を一人で負い、復帰摂理を成功裡に遂行しているからです。

 混沌と放蕩によって持つれたこの世界に、本然の真の愛の秩序を立てているのです。

 皆さん、信じる者には福があると言います。この天の真理を伝えている文総裁夫婦こそが、まさにその真の父母なのです。

 今、人類に平和を約束することができる思想体系は、文総裁が説く真の父母思想しかありません。共産主義も民主主義も共に失敗しました。残ったのはただ「ために生きる哲学」、すなわち永遠の生命を創り出すことができるのは「真の愛を基盤にした天父主義」だけです。

 神様の対象である自分が、神様より高くなれる価値を持ったと称賛できる自分自身を発見することだけです。ここにおいてのみ、永遠の平和世界、すなわち永遠に生きるべき地上天上天国が連結されるのです。

 私たち夫婦は、人類の真の父母たる資格を持って、既に全霊界を統一しました。4大宗教の教祖であるイエス、釈迦、孔子、マホメットはもちろん、彼らの第一弟子級の120名ずつからメッセージを受けています。霊界で開催されたセミナーを通して、私たち夫婦の教えである「原理」と「統一思想」を学んだのちに送った彼らのメッセージは、一様に希望的であり、真の父母に対する感謝の言葉に満ちています。

 さらには、マルクスとレーニンをはじめとして、霊界に行っている世界的な共産主義者たちも、真の父母の命令に従って原理セミナーを修了し、悔い改めと痛恨の涙で綴ったメッセージを送ってきています。

 今、彼らの希望は、ただ一つです。それは地上の信徒や信奉者たちが、一日も早く、真の父母である文総裁の教えを受け入れ、永遠の生命を準備しなさいとのメッセージです。

つかの間の地上生活において貴い一生を浪費せず、だれもが肉体を脱げば入っていって永遠に一緒に暮らすことになる霊界での生活のために、知恵深く準備してきなさいとの忠告で満ちています。

 皆さん、これは何を意味するのでしょうか。

 第一に、老若男女、地位の高低を問わず、全人類は今、神様が実際に生きて働いていらっしゃるという、厳然たる事実を信じなければならないという点です。観念的にのみ信じて暮らす神様であってはなりません。私たちの一挙手一投足を血眼になって見守っていらっしゃる神様であられます。

 御自身の懐を離れてサタンのところに行った人類が、今、悔い改めて再び御自身の懐に帰ってくる日を待っていらっしゃいます。

 放蕩息子になって離れていた子女が、懺悔の涙とともにお父様の懐に帰ってくる姿を思い描いていらっしゃいます。いまだに地上にとどまって人類復帰のために血と汗と涙の道を歩んでいる真の御父母様を慰め、侍りながら生きてほしいというのが神様の願いです。

 終末期であるこの時代に下さった神様御自身の警告を深刻に受け止め、誤った人生の軌道を修正し、後悔のない生活を送ることを願っていらっしゃる神様であられます。

 第二に、霊界の実存を事実として受け入れ、私たちの生活すべてを天倫に合わせて生きなければならないという警告です。前進的自我を発見し、前進的主体性を探し立てて、この地上に平和世界を定着しなさいという催促のみ言です。

 神様が見守り、数千数万の聖人賢哲、そして皆さんの先祖が皆さんの日常生活を注視していることをはっきり悟るなら、だれがあえて天倫から外れた生活をすることができるでしょうか。

 今からは、遠からず皆さんも霊的な体験をするはずです。皆さんの先祖が動員されて、皆さんの生活と考え方までも直接監視し、指導する時が来ました。私たち夫婦の教えを信じて従う多くの方々は、既に生活の中でこのような境地を経験しています。

 愛する日本の皆さん! そして、本大会を見守る7000万の世界の人々と霊界の7億の祝福家庭の皆さん!

 人類の真の父母たるメシヤが再臨したこの時代、韓国と北朝鮮が銃や剣ではなく、愛と真理で統一されるこの時代、世界のすべての宗教が真の父母の教えのもとに一つになるこの時代、霊界のすべての聖人賢哲と先祖が降臨して、直接私たちと交流しながら暮らすことになる、歴史的で摂理的なこの時代を迎えた皆さんは、本当に恵まれた人々です。

 今、全人類は人種と理念、そして国境を超越し、平和の世界を創建するのに、召命された責任を果たしてくださるようお願いしながら、きょうの私のお話を終えようと思います。

 神様の限りない祝福が皆さんの家庭と国家に満ちあふれんことを祈願いたします。

 ありがとうございました。

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