文鮮明師 講演文

「“生と死”についての理解」

「“生と死”についての理解」

文鮮明師 講演文
"In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the word was God." John1:1

「“生と死”についての理解」

(99.02.05 '99 世界文化体育大典 開会晩餐会基調演説 韓国・ソウル)


 尊敬する議長、各分野を代表する世界指導者、内外貴賓、紳士淑女の皆様!

 '99世界文化体育大典に際して、全世界各国から尊敬される指導者の皆様がこのように参席してくださったことに対し、本大会の創始者として深く感謝申し上げます。

 新しき千年を展望する人類は、平和と繁栄のために愛の文化、心情文化世界を指向しなければならないと見ているのが、私の所信です。その点から「家庭倫理と世界平和」をテーマとして開催する本大会は、大きなが意義があると思います。

 望ましい愛の文化が定立されるための条件はたくさんあるでしょうが、道徳と精神的価値を復興させ、家庭の和楽と安定をなすことが先決要件となるでしょう。

 個人の道徳的生活の基準や、家庭、あるいは社会の倫理基準が絶対価値を中心として確立されるためには、正しい世界観と宇宙観が定立されるべきでしょう。今回私は、歴史以来全ての人々が腐心してきた問題である、人間の生と死について見解の一端を述べようと思います。

 私たちは、この地上に生きていますが、この世界は地上だけがあるのではなく、霊界もあります。間違いなく、霊界はあるのです。そして、この地上と霊界は全く別な二つの世界ではなく、一つの世界として連結されています。私たち人間は霊界から生まれたがゆえに、再び霊界に帰らざるをえないのです。

 韓国語では、おもしろいことに「死ぬ」という意味に「帰る」という単語を用います。どこに帰るというのですか。これは単に共同墓地に行くことを表しているのではありません。

 元来、人生の出発した本来の所に戻るという意味です。遥か遠くの歴史の起源を越えて帰るということです。かと言って、韓国人として生まれたから韓国人として帰るという意味ではありません。

 われわれ人類の祖先の根源となるその世界に帰るという意味です。すなわち、創造主がおられるならば、その創造主のおられる所に帰るという意味です。そこから出発したからそこに帰るわけです。

 宇宙も循環作用をします。例えば、山に積もっていた雪が解ければ、その水が小さな渓谷を通って流れるようになり、さらにはいろいろな川を通って大海に流れ込みます。

 大海に流れて込むようになったその水は、水蒸気になってまた戻るのです。このように循環運動を通じて、より高くなれる所へ、より良くなれる所へと帰ることを願うのです。

 では、私たちが行って永遠に暮らすべき所はどこでしょうか。私たちは地上界で肉身生活をしていますが、心だけは永遠の世界を目指しているのです。私たちはこの世に生まれると、10代、20代、30代、そして壮年、老年時代を経るようになります。

 このように青春時代を過ぎ、壮年時代を経て老年の峠を越えながら、沈む太陽のように一生を終えるようになります。

 しかし、霊界があるという事実の分かる人たちは、地上で肉身をまとって暮らす一生はつかの間であり、死んだ後に私たちが迎えなければならない世界は永遠だということをよく知っています。ですから、地上での一生の期間というものは、永遠の世界を準備するための準備期間なのです。

 学生を例にしてみれば、その学生が一つの学期、あるいは一つの学年を終えながら学校が制定したすべての学科の単位を取るべき単位の基準があります。

 その最高の基準を100点としてみるとき、その基準にその学生の単位がどれくらい到達しているかを比べることによって、学校に認められる学生にもなるわけです。しかし、単位に満たないパーセンテージが高ければ高いほど、その学生は学校の定めたその価値基準から遠ざかるのです。

 このようにすべては、ある標準を中心としてその価値を測定するようになっています。私たちが一生の間、肉身世界で生きるのも、あたかも学生が学校で良い成績を取るために準備する期間のようなものです。つまり、私たちの全生涯を歩んで、単位を取る準備期間ということになります。

 すなわち、私たちの一生を巡って責任が追求されるある基準の前に、私たちがどれほど一致するかという基準値を中心として、毎日私たちは生涯路程を歩んでいるのです。ところが大抵の人々は、本来人間がこの世に生まれ、生きては逝くべき本然の世界がどこであるか、はっきり分からずにいます。すなわち、死後の世界があるのかないのか、神が存在するのかしないのかも分からいままに生きているのです。

 皆様! 私たちは皆いつかは霊界に行くようになっています。実は見てみれば、その霊界は一つの国なのです。地上世界のようにいろいろな国に分かれているのではありません。だとすると、霊界で生活する内容はどのようでしょうか。

 例えば、魚は水を離れては生きられません。魚には水が絶対的な生命の条件になります。かと言って、魚も一ケ所だけで暮らすのではありません。魚の中には産卵のために淡水を離れ、海水と接する契機をつくって繁殖する場合もあるのです。

 二つの世界に通じなければならないという意味です。私たちの体と心もこのように互いに通じなければならないのです。人類の歴史を詳しく考えてみるとき、もし私たちの先祖であるアダムの生まれた日と、結婚した日、そして亡くなった日を記念する世界的な統一圏が形成されていたならば、その日を記念する人類は一つの兄弟となり、一つの民となったはずでした。

 すなわち、一つの世界に暮らす人類になりえたという意味です。そのようになっていたなら、アダムの生活風習はそのまま人類歴史を通じて継承され、そのとき形成された文化は、人類が生存する限り永遠に継承されたでしょう。

 人間はいつ死ぬかも分からずに生きています。いつ交通事故が起こって死ぬかもしれません。死んでから初めて「ああ、文先生の言葉が合っていたんだなあ」と後悔する人もいるでしょう。分かってみれば、私たちはたいへん深刻な人生の道を行っていることを知らなければなりません。

 私たちは永遠の世界を生きていくための準備をするために寸暇を惜しんで生きなければなりません。そのような運命の道に立っているということを私たちは知らなければならないでしょう。

 一般的に霊界に行く人にも二通りあります。自らの持って生まれた寿命を全うして生きて死ぬ人と、自分の寿命を全うできずに死んでいく人の二通りです。自分の命を全うできずに死んでいく人の中には、罰を受けて早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減するため身代わりになって死ぬ人がいます。

 もし神様が、千人の価値を持った一人の存在を中心的立場に立て、すべての人の身代わりに死の道を行かせたなら、千人が皆その人の恩徳の前に感動するのです。それでその人のために生き、その人の生涯を手本にし、その人のように生きようとなったなら、結局のところ人々はその人と同じ恵沢圏内に入ってくるのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の人生に従おうとするのも、彼らのような恵沢圏内に入っていきたい欲望があるからなのです。

 人間の中には、希望を持って生きる人もあり、希望を持てずに生きる人もあります。ところで、希望は人間を中心とした希望と、天を中心とした希望の二つに大別することができます。

 私たちは生まれたその日から、母親のぬくもりが何よりも一番のものと思って成長しますが、ある程度成長してからは、母親の手から離れるようになります。私たちはまた成長しながら友達と交わり、友達こそ世の中で一番のものと思って過ごしますが、いつかはその友達とも別れてしまうのです。このように人間は、成長しながら愛する父母も、愛する夫婦も、愛する兄弟も、さらには愛する子女も、自分の希望の全体にはなりえないという事実を知るようになります。

 人間は常に多くのことを希望しています。しかし、その希望する心さえも結局は消えてしまいます。家庭に対する希望、国家に対する希望、さらには世界に対する希望を持っていますが、年齢が高くなるにつれて、その希望する心もだんだん弱くなっていくのが事実です。

 実際、多くの人々は、自らの希望を全体的な希望として誇り、自らの命をたとえ失っても、その希望は捨てられないというほどの確固たる信念は持っていません。

 私たちは一生の間あらゆる希望を抱いて生きていますが、結局は死に直面し、自分の抱いていた希望を何もかも捨てたまま行ってしまいます。私たちは今日も生きることを希望し、明日も生きることを希望し、新しい希望を求めてさまよっていますが、死に直面するようになると、そのあらゆる希望を後にして、絶望しながら最後の道を行くのです。この事実を私たちはよく知っています。人間は自分を中心として見るときには、希望を持っているように見えますが、死の峠を越え得る希望は持てずにいるのです。

 私たちが人生に規範としつつ、死さえもあざ笑って越えることのできるような一つの希望を見つけなければなりません。それが今日この地上に生きる人間の考えるべき重要な問題であると思うのです。

 皆様! この世の万事はすべて過ぎ去ってしまいます。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、さらには世界、あるいはいかなる主義や思想もみな過ぎ去ってしまいますが、最後まで残らなければならないものは何でしょうか。それがまさしく死と闘って勝利することのできる希望なのです。私たちにそのような希望がないならば、私たちは人生の敗北者というしかないでしょう。世の中には、生まれて以来、世俗的なすべての希望を一切拒否して、人の世の希望でない天の希望、すなわち永遠なる希望を抱いて生きる人たちがいます。

 天はまさにこのような人を助けるのです。ですから、信仰生活をする人々は、地上の何らかの希望を抱いて生きるのではなく、死の峠さえも越えることのできる希望を抱いて、永遠なる希望の世界を夢みて生きなければならないのです。私たちが若いときは、死に対して多くを考えませんが、年を取っていくたびに私たちは死に対してだんだん深刻になっていくのです。ここに座っている皆様も、この場に立っているレバレンド・ムーンも、いつかは死ぬようになります。このように死というのは運命の関門なのです。

 誰にも避けられない道だからです。私たちが死んだ後には、果たしてどのようになるでしょうか。「死」という単語をテーマに用いたねらいが何であるかお分かりでしょうか。生の意味を知らしめるためです。

 では、生の価値は誰がよく知っているでしょうか。生きようとして身悶えしている人には分かりません。死の境地に入っていき、生死の岐路で天に取りすがり、生の価値を打診してみた人でなければ分からないのです。

 では、私たちはなぜ死を恐れるのでしょうか。私たちがどうして生まれたのか、その目的を知らないからです。なぜ死ぬのか、なぜ生まれたのかということを知らずにいるのです。ですから哲学でも一番はじめに問う質問は、人生とは何であり、人間はなぜにして生まれたのかということです。

 皆様! 私たちが死ぬということは、神様の愛の中へと生まれゆくことですが、人間世界では「ああ死ぬ!」と言って大騒ぎをします。それを見る神様は、ケラケラ笑いますか、もしくは「ウワーッ!」と言って驚いては悲しがりますか。嬉しく喜ばれるというのです。

 制限された地上の愛の圏内から、無制限の愛の圏内に突入できる喜びを迎える瞬間が、肉身の死ぬ瞬間、つまり第二の出生の瞬間だからです。それでは、神様は私たちがこの肉身世界に生まれた日をもっと喜ぶでしょうか…。

 もしくは、第二の無限拡大世界の愛のために肉身を脱ぎ、死を通して新しい息子に生まれるその時間をもっと喜ぶでしょうか…。もちろん後者です。私がこういう話をするのは、皆様が死の恐怖から解脱しなくては神様と関係が結べないという、事実を知らなければいけないからです。

 神様は、人間が赤ちゃんとして生まれて、オシッコやウンチをしながら成長していく過程を見守り、また直接に参与もなさりながら喜ばれるのです。赤ちゃんの成長に応じて神様の心に動く愛の拍子も、グローイング・アップ(Growing Up・成長)するからです。

 神様があるしぐさをすれば、子供たちも一緒にしぐさをします。神様が笑えば子供たちも一緒に笑い、神様が悲しまれれば一緒に悲しみながら…、このようにだんだん神様に似ていくのです。また子供たちは、成長しながら両親の姿に似るようになります。言葉も覚え、生活規範も両親から学ぶようになります。

 もちろんこれらのすべては、本来神様から由来しているものです。とすれば、神様が私たち人間とともにこの地球星で暮らしている途中で、あの世にサッと飛び去っていくとき、私たちはどうしなければなりませんか。

 「私もついて行きます!」と言ったら「こいつ、お前は誰だ?」と言いながら、神様が私たちをつまはじきにするでしょうか…。もしくは、一緒に連れて行くでしょうか…。もちろん連れて行きたいと思われるのです。

 ところが「今は連れて行けないから、君はもう少し大きくなって、もう少し完成した後に連れて行こう」とおっしゃいます。人間は「僕たちも今は行けないけど、いつかは行く時が来るんだな」と思いながら待つのです。地上で肉身をもって生きている間は、人間は神様に常について回れません。

 さて、そうだとすると何が問題でしょうか。私たちが神様の似姿になりたがり、神様も私たちが神様の息子・娘として御自身の似姿となることを望んでいるはずです。

 それゆえ人は、もう一度神様に似ることのできる姿になって生まれなければならないという結論が出てくるわけです。神様と人間は共に永遠に飛び交いうる日を待ち望んでいるのです。そのように飛び交いうる人として生まれる日、そんな姿に生まれる日、その日がまさに肉身を捨てて死ぬ日なのです。

 だとすれば、人間は死を歓迎しなければなりませんか…。あるいは悲しまなければなりませんか…。もちろん歓迎しなければなりません。だとすれば、私たちが死ぬにあたって、何のために死ななければなりませんか。「神様の真の愛」、すなわち「為に生きる愛」のために死のうとしなければならないのです。ですから、肉身を捨てるというのは、無限なる神様の愛の活動圏内に私たちが共に参加するためであり、神様の愛の世界のためであるという結論になるのです。

 皆様! 皆様は一度そのような「真の愛」を受けて実践する神様の本物の息子・娘として生まれてみたくないですか。神様がお金持ちであるすると、どれくらいのお金持ちですか。皆様は一度考えてみたことがありますか。

 あの無限な星の中にダイアモンドの星がないと言い切れますか。純金でできたた星はないでしょうか。神様こそ全知全能であられるお方です。御自身の子女たちに何もかも与えたいと思われないでしょうか。どうでしょうか。

 神様はこの無限の宇宙をアッという間に往来することもできます。皆様も関心がありますか。だとすれば、私たちはどのようにしなければならないでしょうか。神様が定めてくださった法度を守らなければならないのです。

 そのようにすればこそ、神様と共に暮らすことが可能なのであって、私たちの好き勝手にしていては不可能なのです。皆様、神様の「するべからず・すべし」と言われることを守れる自信がありますか。人間は二重構造になっています。心が主体で体は対象ですから、体が心に従って一つにならなければなりません。

 人はまた三段階の世界である、蘇生・長成・完成時代を経ます。要するに、母親の胎中での水中世界・地球星の世界・天上の空中世界のことです。

 私たちは胎中の「水の時代」を経て地上に生まれ、肉身をもって100年の間「地の時代」を経るようになり、最終的には飛び交う「空中時代」、このように三時代を経るようになるという意味です。私たちがお母さんの胎中にいるときは、外の世界に行くまいとして抵抗します。その中にずっと残っていようとして、じたばたします。

 なぜなら、私たちが胎中から飛び出してくるときは、家はみな破壊され、私たちが食べて暮らしていた営養価値やすべてのものも破れて出て、分娩過程を通過しながら頭も伸び縮みしなければならず、体も伸び縮みしなければなりませんが、誰が喜ぶというのでしょうか。生まれるその瞬間まで皆が「ノー!」(NO!)と言うのです。子供は、羊水がパッとはじけ出てくるその水とともに出てくれば安産になります。

 お母さんたちが赤ん坊を分娩するのを見れば、実に哀れです。赤ん坊を産んでみたお母さんたちは皆知っています。力を入れるときは、顔がどんなに美人だとしても、顔中をしかめながら…、夫までもその顔を見かねて逃げ出すほどです。よく似た万物相の姿になるのです。このように、妊婦も最後の瞬間までとてつもない苦痛を体験してこそ、子供が生まれるのです。

 ところが、その過程でヘソについているヘソの緒をそのままにしておくべきでしょうか…。あるいは、無慈悲にも切ってしまうべきでしょうか…。「それは、他人の生命の綱なのに、人と人との生命の綱をどうして切るんですか」と言って抗議する人もいるかもしれません。

 生まれる子供も死にそうだとギャーギャーと泣き叫びます。しかし、それを見つめる神様は喜びの笑いを抑えることができません。そのようになれば、産まれた新しい生命には一つの世界はすっかりなくなり、新たな一つの世界で「フーッ…フーッ…」と息をするようになるのです。

 皆様! 人は一番最初生まれるとき、一番深い水の中から生まれるのです。腹中時代は水中時代です。赤ん坊がお母さんの胎中にいるときは、水中にフワフワ浮いています。ちょっと考えれば、お母さんのお腹の中の時代には、息がつまって生きるのが難しいように感じられます。

 水中に生きているので、当然、水を吸って吐き出すことをしなければならないでしょう? そのために腹中の赤ん坊たちは、ホースをお腹に連結して生きるのです。

 腹中の赤ん坊は営養分をどこを通じて供給されますか。ヘソを通じてです。ヘソは腹中の子供には口です。それで私たちは、ヘソをばかにしてはいけません。

 「ヘソよ、おまえは昔苦労した」と言いながら触ってやれというのです。ヘソをたくさんたたいてやれば健康になります。笑い話ではありません。

 そのように運動をしなさいというのです。ヘソの運動を通して健康になるという話です。その例として、どんなに寒い部屋で寝ても、ヘソだけよく覆いかぶせて寝れば下痢しません。私たちはまた、ヘソを私たちの昔の口だと呼ぶこともできます。

 ある者は「この愚か者、昔の口がどこにある」と言うかもしれませんが、ヘソが私たちの過去の口だったことだけは間違いありません。このように、私たちの呼吸器の役割もしたヘソの次の段階は口です。絶えず上に上がるのです。

 同じ原理で、この地球星で空気で呼吸をして生きる肉身についている私たちの霊人体は、お母さんの腹中の胎児のように肉身を吸いとって、肉身が完全に老いれば蹴って出ていこうとするのです。

 ところがそのときに肉身が「ああ死なない、死なない」と言って悲鳴を上げるならば、神様はその姿をどのようにご覧になるでしょうか。苦痛にひんしたその肉身に同情なさるでしょうか。でなければ静かに微笑まれるでしょうか。

 とてつもない苦痛を甘受してお母さんの腹中を飛び出してきた赤ん坊が成長して、お父さん、お母さんの愛の対象になるように、私たちは肉身の悲鳴を後にして新しく生まれ、霊的父である永遠の神様の相対として再び生まれるべきであるということが原理的な結論です。

 地上世界でも子供が生まれた後成長すれば、お母さん、お父さんと友達になることができるのです。お母さん、お父さんと愛を共に分かち合うことができる地上世界に生まれるからです。赤ん坊が母胎の中で泳ぎ回るのと同様に、人間の地上生活は空気を吸って空気の風呂敷の中で生きるようになるのです。

 そのような過程をたどりながら、地上でこのようにお母さん、お父さんと愛を分かち、呼吸する人であってこそ、死なないで生きていると言えるのです。同様に、私たちは霊的に無限な世界に通じうる父母であられる神様と愛を交わすことができる霊界に再び生まれなければならないのです。

 では、霊界はどんな所ですか。私たちが霊界に入っていけば、頭上にある息をする穴と細胞で呼吸するようになります。霊界での空気は地上の空気ではなくて愛です。呼吸を通して愛の要素を受けるというのです。私たちが地上に生きるときも、ご飯だけ食べてはなりません。

 ご飯だけ食べて水だけ飲んで生きるということは、ご飯の袋と水の袋を満たすことだけです。結局そうこうしながら死んでいくというのです。地上で生きる間の私たちの姿は、第2の私たちの存在です。

 私たちがこの期間にしなければならないことは、新しい愛の人格を形成しなければならないということです。この地上で私たちが最も必要なものが愛です。孤児は何ですか。お母さんとお父さんの愛を受けることができない子供たちをなぜ孤児と呼びますか。

 霊界と永遠に連結させうる愛がないからです。愛がなければ孤独なのです。それで独身で暮らす人を哀れだと言います。言い換えれば、私たちが死ぬということは、第2の呼吸をした肉体に連結されたこの器官を壊してしまい、愛の要素を受け継ぐことです。

 ですから、私たちはどうせ肉身を壊して行かなければなりません。愛は見えないのです。父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛、これらすべての愛を中心として、私たちの内的な構造が成長するのです。

 それで神様の法則通りに生きるときにだけ、赤ん坊がお母さんの腹中で正常な赤ん坊として育つのと同様に、私たちがこの地でもよく成長できるのです。むやみに生きてはならないのです。

 私たちが自然界を注意深く見れば、取るに足らない昆虫、実の中の木の種、そして鳥の子も飛ぶことができますが、まして万物の霊長たる人が飛ぶことができなくていいですか。タンポポの種(dandelion)をご覧なさい。風が吹けば自然に飛ぶようになっています。

 このように鳥も飛び、昆虫も飛び、植物の種も飛ぶのを見れば、人間も明らかにとぶことができるように創造されたことは間違いありません。ある者は性急に神様に「神様、他のものは皆飛ぶのに、なぜ私たちは飛ぶことができなくしましたか」と抗議したいことでしょう。しかし神様には「君たちは何十年か待ってから完成すれば飛ぶようにしてやろう」とお答えになるでしょう。

 ではそのときまで、私たちは何をしなければなりませんか。そのときになってその世界に適応できるように、私たち自らを訓練しなければならないのです。父母を愛し、夫婦どうしで愛し、子供を愛しながらこの地上世界で訓練をしなければならないのです。

 そうして時が来れば、永遠の世界に入っていき、永遠に神様に仕えて生きるようになるのです。そのためには、いつかはこの肉身を脱いで死んでこそ可能なのです。

 私たちがセミ(Cicada)の一生を注意深く見れば、セミも飛ぶようになる前に幼虫の段階を経ます。ところが、そのセミが「私は幼虫として生きたい。殻を脱ぐのが嫌だ。ああ、陸地とか何とか、空気とか何とか皆嫌だ」と言って反抗をしながらも、実際、殻を脱いでしまえばバタバタと飛ぶようになります。

 トンボも同じです。初めは幼虫になって水の中で泳いで生きて、地上に上がってきてしばらくはい回って暮らします。その次には殻を脱いでスイスイと飛び回り、陸地では食べるだろうとは思いもよらなかった虫を捕食します。天下を自分の舞台にして飛び回るのです。このように、昆虫類の中では三段階世界を経ることが多いのです。

 それで昆虫には羽があります。水と陸地と空中の三時代を生きながら羽を持つようになるのです。万物の霊長である私たち人間には羽がありますか。地上でだけ暮らしてもかまわないでしょうか。人間には次元の高い羽があるのです。

 みなさんも肉身を脱いで死ぬことが嫌だと言うでしょうが、実際死んで肉身を脱いでしまえば、私たちは霊人体として第2の出生の幸福な関門を通過するためにサッと!いって飛んで行くのです。

 前にもお話ししたとおり、人間はどうせ死ぬようになります。私たちは善なる自我を永遠の世界に第2の私として立てるために、苦労を覚悟しなければなりません。お母さんの腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善なる赤ん坊として生まれることのと同様に、私たちの地上世界での生活もよく準備しなければなりません。

 神様の形象にならい、神様の心情に見習い、神様の偉大な神聖にならって育たなければなりません。育ってからは、また生命をかけて越えていかなければならないのです。したがってどんなに恐い暴風雨が打ちつけても、私たちは最後の峠を越えなければなりません。うまく行っている途中で、境界線の前で倒れてはいけません。

 私たちがこのような人生の境界線に立つようになるとき、私たちは果たして何をすべきでしょうか。しっかりして走っても、終わりまで行くか行けないか分からないのに、あたふたしていては中途で挫折してしまうのです。最後の決勝点まで境界線を突破しなければ勝利者になり得ないのです。

 人として生まれて一度してみるに値することです。どんなに背後で反対し、横から迫害しても、自分の行くべき道を行けばいいのです。

 他人が反対するのに関与する余地がありません。一歩一歩でも早く進んでこの運命の道をたどって行くべきだという人が、最後の境界線を越えることができるのです。私たちは皆そのように行かなければなりません。

 私たちはしばしば心が正直だと言います。その言葉はどういう意味ですか。まっすぐ垂直に立ったことを正直だと言います。木も横に傾いたものはまっすぐだとは言いません。心が正直だというのも同じことです。垂直に立っているという意味です。それで人は立って歩くのです。垂直になってこそ正直なのです。

 自らの心を完全に垂直になるようにしなければなりません。そこに体が水平線となるのです。このように垂直と水平が私たち内部でなされるときに、垂直から引いてくれる力と水平から押してくれる力が均衡を取るようになって、求心力と遠心力が形成されるのです。

 それゆえ、私たちは自分自身を見出さなければならないのです。私たちが自分自身を主張するときは、神様と真の父母がそうだと言って認定しなければならないのです。

 その基盤の上に、私たちは親戚、一族、一国、このように発展させいき、私たちの生活環境を拡大していくのです。世の中で危険な伝染病患者を隔離して収容するように、近い将来神様のみ旨を知っても罪をたくさん犯す人々は隔離させて、北極のような寒帯地方に収容するようになる時が来るでしょう。

 彼らは完全に悔い改めて回復するその日まで、そのような所に放り込んで、食べるものと寝る所もなく、途方もない苦痛の道を歩むようになるかもしれません。

 皆様! 私が悲しく思うことが一つあります。神様が御自身のみ旨を成し遂げる責任を私に与えたゆえに、私は生きている間に神様が満足する水準までみ旨を成し遂げておかなければならないということです。

 それ以前には、死ぬにも死ねないということです。したがって、私が死地に入っていっても、神様が導いて率いてくださるというのです。私はこのみ旨を成し遂げるために、ご飯を食べても、寝ても覚めても、世界と人類のために祈祷し努力しています。

 ある特定の国家や特定の民族のために苦労はしませんでした。私の目的は、世界の救いです。私はその目的のために今まで死を覚悟して犠牲的に命を捧げて働いてきました。皆様も世界のために生きて死ななければなりません。

 世界を救うためなら、愛する妻を抱き、家庭を抱き、自分の種族を抱き、民族をそっくり抱いて死ぬこともできなければなりません。今皆様は、今後ある一日に死に突き当たるようになり、死を前にして過去を回顧してみるようになるでしょうが、そのとき、どんな一言の言葉を残して行くべきかということを考えてみなければなりません。

 死の道は友達もいない道です。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦、愛する子女もいない道です。ただ一人で行く道です。

 再び行ってみることもできず、行って来ることもできない道、一度行けば永遠に帰って来れない道ですが、この道を行くようになるときに、人間はいかなる心を持って行くのかが重要です。人間が死に出会うその瞬間に、その死を越えて立つことができる希望がないのなら、そこで最後です。

 今日まで神様のみ旨を奉り、神様のみ旨を立ててきた数多くの人々は、どんな人々であったかというと、死の道の前で後退した者たちではなく、死をあざ笑い、死を堂々と越えた人々でした。そのような人々が、天の道を立ててきたという事実を、私たちは歴史を通してよく知るところです。

 では天の願いを抱いて生きる人はどんな人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も喜びで越えていくことができる人です。そのような人が天の願いを抱く者であるということを知らなければなりません。

 ですから、私たちは死を前にして世の中の万事を怨んで歎息する人にならず、喜んで天の前に立って自己の死の価値を誇ることができる人になるべきです。では、死ねばどのようになりますか。死ぬ前までは自分のものですが、死んだ後には神様のものになります。それは私たちが堕落した血統を受け継いだからです。

 したがって、死ぬ前までは私たちの生命の全部はサタン側の因縁から逃れることができないのです。しかし、死んだ後には神様と因縁が結ばれるのです。死なずには復活することができません。一つの時代を過ごさずには他の時代を迎えることはできないのです。

 「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」という聖書で言う死とは、何のことですか。神様が下さった永遠の真の生命を殺せというのではありません。

 サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を殺せということです。それでみ旨のために死のうとする人は生きるというのです。この話は逆説的ですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ復帰することができないのです。これは復帰の正常な論法です。

 人生の勝敗は何十年の期間に決定されるのではありません。それは一瞬にして決定されるのです。私たちの一生について見ても、皆様が生まれるその瞬間は長い時間ではありません。

 もちろん、生まれる前までの腹中の時期がありますが、その腹中の10か月という期間は、出生する一瞬のための準備期間なのです。ところが、10か月間いくらよく準備したとしても、決定的な一瞬をうまく越えることができなければ、生まれるその赤ん坊は悲運の運命を迎えるようになるのです。

 この地上に生まれ、運命の瞬間を迎える最後の場で過去を悔いる人がいるならば、その人の心には過去のあらゆる事実が映像として通り過ぎるでしょう。その中で「真があった。私の生命よりも貴いその何かを残した」という人がいるならば、彼はたとえこの地に生まれて逝っても、甲斐あるひと時を楽しむ人になるでしょう。

 しかしながら、すべての過去の事情を回想してみるとき、首を振って回想したくない過去を持てば、彼は悲惨な人です。過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜があふれ、自分のあらゆる問題が理想に浸ることができるならば、死の恐怖も彼には慰労の一つの場面として飾られるでしょう。

 過去を回想する瞬間が恐怖の瞬間でなく、他の何かを残すならば、彼の過去は死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう。

 そうすることができる過去を持った人は、必ず民族がついてくることができる因縁を持った人であり、世界の万民がついてこざるを得ない因縁を残した人であると見ることができるのです。

 神様の前に一人で立つことができるかという問題について見るとき、真と善は自分から始まり、自分で終わるのではありません。自分から始まって他人に結果を結ぶようにするか、他人によって始まり自分に結果をもたらすことができてこそ善になり得るのです。

 過去の生活が他人のためになる生活ならば、死の道にも恐怖がないでしょう。他人のためにすべてを皆与え、他人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら涙も他人のために流し、自分の生命も他人のために投入し、自分の願いも他人のためのものなので、自分の脈拍から流れ出るすべて生命力を引き集めて、他人のために投入するようになれば、その過去は輝く過去になるでしょう。

 聖賢の行く道と凡人の行く道は違います。聖賢は歴史とともに生きようとし、世界とともに生きようとし、未来とともに生きようとした人です。

 しかし凡人は、自分によって生きようとし、世界も自分によって存在させようとした人です。霊界にも霊界なりの世界があり、国があり、宗族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見るとき、自分はそこで絶対的に必要な存在だと言える自主性がなくては入っていけない所が天国です。

 家庭を中心として見るときも、宗族を中心として見るときも、やはり自分が絶対的に必要だと言える、そのような自主性があってこそ行くことができる所が天国です。

 霊界では地球というものは、ちり一つと同じようなものです。霊界は時空を超越した無限の世界です。そして「ある時代にこれこれこういう心情を持って、地上で生まれて生きてから逝った人がいれば、ここに直接出て来い!」と言えば、その人が瞬間的に現れます。そのように直感的な感覚が現実化する世界です。

 そこには食糧を作る工場もなく、自動車を作る工場もなく、何もありません。人間は霊界に入籍するとき、地上生活を証明する証明書を持って行かなければなりません。「私はこのように生きた。こういう仕事をした」と言える生涯の証明書のことです。そういう証明書は、自分自身が書くことはできません。

 初めはサタンが書きます。まずサタンから証明書をもらってから、イエス様の証明書をもらわなければならないのです。その次に、神様の証明書をもらわなければなりません。

 この3種類の証明書が必要だということを知っていなければなりません。霊界に行ってみれば、霊界は膨大ですが、3段階になっています。誰がトップに上がるかというと、より他人ために生きた人です。しかし、自分のために生きてきた人は、反対の立場に立つようになります。

 自分のために生きた人はすべてが反対であり、他人のために生きた人はすべてが歓迎します。霊界に行っていれば自分の父母、自分の妻も関係ありません。高い所に行く人は、全部他人のために生きた人々です。

 世界のすべての国を回りながら、自分の母親と家庭に対する愛を拡大したような心情を持ち、為になり、世界の人々を全部悪から救ってあげる聖人の心を持った人々が高い所に行くのです。

 自分のために生きた人は、地獄へ行くのであり、他人のために生きた人は天国へ行くのです。この二つの世界が、死で分かれるのです。それゆえ、全体のために、より大きいことのために生きよというのです。

 世界のために、神様のために、人類解放のために生きよというのです。これからは、互いに「為に生きよう」という競争が起こるでしょう。

 天国では、為に生きる人が高い位置に行くので、私がその高い人のために生きれば、その人に乗ってジャンプできるというのです。その人のために生きることは、神様が創造して相対を作ったのと同じであるがゆえに、その人の愛の対象圏に立つというのです。霊界は真の愛を中心として他人のために生きる所です。

 他人のために100パーセント尽くした人に対しては「私を踏み越えて行け!」と言うのです。いくらアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領よりもその国民のために生きる人がいるならば、その人が大統領を踏み越えても皆歓迎するのです。

 しかし、自分の利益だけを取るようになるときは、全部怨讐になるのです。霊界でも同じです。より大きいことのために生きようというときには、自然に通過するのです。より大きいことのために生きれば、自然に通ずるのです。ですから、世界のために生きる人はアメリカのために生きなくても良いのです。世界中の中にアメリカが含まれるのです。すべての国が皆含まれるのです。

 皆が歓迎できるその方向の内容とは、真の愛を中心として為に生きてゆく愛の道しかないという結論が出てくるのです。

 死ぬときに持ってゆくべきものは、神様を愛し、自分を愛し、本質的な人である自分を立てるために苦労し、自分と相対との夫婦の愛、家庭の愛を中心として、この愛を世界に拡大するために努力したものです。

 人類を愛して神様を愛したことが最後に残り、あの世の所有権決定の基準になるのです。霊界に行けば、伝道した人の数によって、皆様の霊界の所有権が決定されることを知らなければなりません。霊界に行って誇ることが何かといえば、どれだけ人を恋しがって生きたかということです。

 あの世で必要なことは、ほかでもありません。世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子・娘よりも、神様をより愛したことです。妻が言うには「あなたは私より神様をもっと愛して、私を愛してよ」と言ってこそ夫からより高い次元の神様的な愛を受けるようになるのです。

 今日、文先生は、心情圏というものを解き明かしていますが、心情圏の基地とは、神様を中心とした真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、そして真の子女の愛というものです。そのような愛が普遍化できる世界が心情圏の世界です。

 そのような本然の世界においては、愛する夫婦の愛の基準を中心として生きるとしても、天地、天宙を主とした夫婦の愛でなければならないのです。ですから、その世界に合格できる愛の基盤をどこで磨きますか。文先生は、この世の中でそれを磨いてゆかなければならないと教えているのです。

 この世の中で貴いという数多くの何かとは違い、心情圏世界の合格者になることができるようにということです。それゆえ、霊界には家庭を連れて入ってゆくべき原則があるのです。なぜ息子と娘がいなければいけませんか。

 後孫とは、本来、縦的な神様の愛と横的な父母の愛、神様と父母の血が縦横に混合して生まれたものです。したがって、後孫を持つことができなかった人は、霊界に行って天地の調和を成し遂げることができず、東西南北に拍子を合せることができないということです。後孫を持たなければ、あの世に行っても遊んで休むことができる場所がないというのです。

 皆様、霊界では宗教や宗派が必要ありません。そこに行って長老教(プロテスタント)や天主教(カトリック)とか言うことは必要ありません。神様との生活圏内に入っていくのです。あの世に行くようになるならば、世界を愛した人もおり、愛国者、忠臣、烈女、聖人たちが皆いるのです。

 しかしながら、文先生が知ることには、今までは神様の本然の愛の中で心情圏の伝統を中心として生きた人は一人も行っていないということです。何かを出発させるときは、神様を中心として出発しなければなりません。

 霊界に行けば、そのような原則にどれほど同化し、ここにどれだけ一致したかということが、今後、地獄から中間霊界、楽園、天国まで全部連結されるのです。

 何が第一に貴い道かというと、天のために地上でどれほど苦痛を受け、どれほど涙を流したかということです。それがあの世にパスするチケットです。あの世に行けば、他の国の人間どうしは一緒にいられませんが、すべての宗教圏は一緒にとどまることができるのです。

 宗教圏は一つの世界を願い、一つの神を信じてきたので、一緒にとどまることができるのです。宗教を信じる人々が、世の中の人と違うことは何かというと、彼らは一生の間、霊界を標準として生活するという点です。

 宗教というものは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様ならば神様がいらっしゃった所と、神様がお暮らしになる所を中心として、私たちが関係を結ぶことができる内容を教えてくれるものです。

 尊敬する指導者の皆様!

 人類は、国家単位で、または国際連合を通じて世界平和と人類の繁栄をたゆみなく追究してきました。現実が物語っているように、その努力が政治、経済、技術的側面だけでは効果的になされません。より内的な宗教、教育、文化的側面があってこそ、理想的な結実となるのです。

 なぜなら、人間の真の幸福は、外的、肉的、物質的な豊饒と安楽だけでは成就できないからです。人間は、より内的であり、霊的であり、精神的な完成と満足を通じて、真の理想がなされるのです。

 このような側面は、宗教的な教えと、世界のすべての宗教の連合と、一致した行動を通じてのみ可能なのです。

 私は今日この場を借りて既存の国連に、世界の主要宗教とその指導者たちの参与する「世界宗教国連機構」が創設されるべきことを主唱する次第です。

 世界と人類の未来のために、今日この時点で「世界宗教国連」の創設とその役割の重要性に対し、今後、皆様と世界の各界の指導者たちが、より一層深い論議をしてくださることをお願い申し上げる次第です。

 大変ありがとうございました。

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